人として最も尊いことは、他人の痛みが分かると言うことだ。
「優れた人、立派な人ってどんな人のことだろうか。
何のために大人は子供に勉強しろと言うのだろうか。
偏差値の高い大学に進学する事はそんなに大事なのだろうか
どうして勉強して偏差値の高い大学に入らないといけないのだろうか
どうして大手の会社に入社しなければならないのだろうか」
子供の頃、学生の頃、この疑問に明確かつ納得のいく答えをしてくれる大人はいなかった。
「裕福な生活をするため」と言うのがそれらの質問の本質的な回答だったが、納得いかなかった。その答えに人間としてのあり方が示されていなかったからだ。
人間はいかにして生きるべきかという考えが自分の中に見出せなかったし、身近なところに「こんな人になりたい」と思う人がいなかった。
ヘレンケラーやナイチンゲールや野口英世などの伝記を読んで感動したものの、何の能力も持ち合わせない平々凡々たる自分とはかけ離れていて、自分の人生に生かされるヒントを見つける事はできなかった。
なので、自分はどんな人間になるべく何を信条として何を拠り所として生きていくべきか分からず、ただ暗い漆黒の闇の中を自分の地点も分からず、どこに行けばいいのかも分からず、さまよい続けるような日々を過ごす半生だった。
有名大学を卒業して有名企業で働いたり、社会的地位の高い職業に着く人たちがすごい人たちで、ただただ凡庸な自分はいてもいなくてもよい存在であるかのように思った時があった。
そんな日々を送っていたが、職場や乗馬クラブで社会的地位の高い職業についている、いわゆるエリートと呼ばれる人やら私のように平凡な普通の人やら様々な人と出会いお話をさせていただく中で、
「人として最も尊い事は、他人の痛みが分かるという事である」と確信するに至った。
学習能力を高めたり、情報処理能力や問題解決能力を高めたりする事は練習次第で誰でも可能である。しかし、人の痛みを感じる感性は、誰に教えることも誰からも教わることもできない。強いていうなら、様々な苦労を経験して磨かれる感性と言えるだろう。
いくら能力が高く頭脳明晰であっても、人の痛みがわからない人はその能力を誰かの為に役立てる事はしないだろう。
人の痛みが分かる本当の優しさがある人でなければ、自分の能力や技術を人のために生かそうとはしない。
だから、人として大切な事は優れた能力を持っている事ではなく、人の痛みが分かる心を持っている事なのだ。どんなに凡庸に思える仕事であっても、必ず誰かを生かしている。誰かの役にたっている。大切なのはどんな思いで仕事をしたかという事だ。
心を込めて仕事をしたかという事だ。
愛を込めて想いを込めた仕事は必ず誰かを暖める。
愛するものを守るため、日々勉強して自分の能力を磨き、そして人格を高めていきたい。
大人になって、やっと勉強する意義が分かった。
愛するものを守るため、この地球を社会をよりよい世界にしていく為に勉強が必要なのだと。
私は頭脳明晰でもなく、素晴らしい能力を持っているわけでもない凡庸な人間なのだが、自分の置かれた場所をよりよくできるように周りの人たちと幸せになれるように、愛するものを幸せにできるように、自分の能力と人格を高めていきたい。
それこそが、私に与えられた天からのお役目であり、使命である。
その使命を果たすべく、いつでも”今”を精一杯、全知全力、全身全霊で生きようと思う。
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